つぎはぎ/偶像/天使たち

脳内、日記、自分か好きな人の精神分析、てきとー独自哲学などなど

文字

私の大好きな人もとい戸塚祥太さん、好きになったきっかけは概ね一目惚れなのですが、それは顔にではありません。手書きの文字を見て、でした。

そもそも私は人の顔の認識/識別がとても苦手で、芸能人の顔がわかるようになったのなんて本当に最近、代わりに音を憶えるのが得意、といった風です。

さて、とつかさんを認識した順序が文字の次はラジオでして、文字と声に共通するものとして「言葉」から彼を認識し、好きになりました。顔は最後で、どちらかと言うと髪色が先行して気に入ったので顔というよりは特徴を先に認識しています。普段から恋!みたいな文章ばかりなので私としては傍目にこの順序で好きになったのは意外なんじゃないかなあと思っております。何故今日この文章を書いてるかと言いますと、今日(3月27日)のお昼に彼がインスタに投稿した写真とついさっき投稿したストーリーの写真、の両方にある「文字」を見て、好きを再認識したからです。

www.instagram.com

⬆その投稿。素敵ですね。

以前も似たようなブログを書いたので再掲になりますが、「私は絵は詩だと思っている。詩は思想の圧縮で、それは脳の断片で、つまりは人生だと思っている」「絵描きのことはキャンバスに言葉を叩きつける詩人、複合芸術家と捉えている。」という思想が前提にあって。それで、彼のことはとても素晴らしい「画家」、ここでは前述の広義のもの、私の語彙、文脈での「画家」、と捉えているのです。

そしてその、まあ写真と文字が良かったというだけではわざわざブログに書きません。ストーリーの写真の文字の方、日本語の文字、それが特に絵画の要素が強いものだったからまとめようと思った次第でした。いややっぱり、それだけでかよ!という感じには変わりないですが。文字には性格が出る、まではよく聞きますが、私はもっといったところの精神構造の大部分が表出しているとまで思います。文字には要素として、読みと書き=音と形があって、その両方に意味が乗っかっていて、そしてそれは自分が見聞きし話すものでなければ認識は難しい、「育ち」が出るものです。平面の「絵」であり音だから私は好きになれたんです。認識できるものだったから。顔よりも瞬間的に認識できる「人間性」だったから、文字から一目惚れしたんです。今回の写真には更に「色」の要素もあったからとりわけ好きでした。全部カラーの写真だったらまた違う受け取り方になった気がします。言語の認識は見聞きするものでないと難しいと書きましたが、手書きの文字の場合は「絵」であるために、万国共通語だと思うんです。形の方に乗せられた意味を汲み取れれば自ずと音に乗せられた意味も理解できる、形が自分にとって心地よければ理解しようと思える、先のブログに綴った愛の概念としての理解にも通じてくる。好きな人を知りたいのか、知りたい人が好きなのか、時折わからなくなりますが着地点が同じならいいか、とも思って日々を重ねています。で、人生とは日々の堆積ですよね、そうやって積み重なっていくと物事に対して新鮮なアクションが出来なくなる、まあ「キレが悪くなる」かなと思っていて、だからまた最新のものとして一番上に積み重ねるべく、物事を再認識していくわけですが。私は惰性の好きなんて必要ないと思っていますから、いつだって新鮮に好きでありたくて、そうした時にやはりスタートとゴールは一周して同じ地点であるように、初めに認識した好きに自然と辿り着くんです。それが私の場合は文字でした。そういった好きの言語化、再認識でした。毎日その日始まった恋であるかのように好きでいようと思いますし、わざわざそうあろうとする、意図的にであるステップを踏まずしても好きであることが本当に好きなのかなって。自然なこととしての好きを、意識せずにあるがまま認識して、結果としての理解を大切に、それら一連を省略して、「あなたのことが好きです」と、どうせ一度の人生だから伝えていたいなと、そんな感じです。