つぎはぎ/偶像/天使たち

脳内、日記、自分か好きな人の精神分析、てきとー独自哲学などなど

わたしの愛のはなし

私はりるかと名乗っているが本名はルカだ。実際は漢字だけど。

そして、両親も私もクリスチャンではないけれど父親が一時期は日曜日にはウェブで礼拝を聴いていて、幼稚園から小学校二年生あたりまでは時々家族で実際の教会にお祈りにいったりもしていた。中学受験をしてプロテスタント中高一貫校に通っていて、両親は二人共そこの付属大学出身。私は聖書の授業は真剣に聞いていたので12歳から現在まで聖書の言葉というのはとても大切なもので、人格形成の一端を担っているのは間違いない。

その中で私の価値観に著しい影響を与えた一節があって、それは

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:13)

この部分だ。

この一節が私の友情の価値観そのものだ。だから恋愛的に好きな人がいても関係の最上位に位置するのは友達だ。上回るか同等なものがあるとしたら信仰くらい。ここは後述する。

私はこのように友情を捉えているので友達のハードルがとても高く重いだろうと客観視している。それは恐らく事実だろう。だって自他共に命を捨てれるかを基準としてるのだから。実際、私が友達だと思っている人のために命を捨てることは全く惜しくないです。命とはそうするべく存在してると思っているから。

殺されるのも死ぬのも「愛に」が良い。

私は高校二年生からジャニーズのコンテンツに触れるようになって、一番好きな曲はシブがき隊の「Zokkon命」だから命はイコールでLOVEだと思っている。私が言葉は絵だと思っているのもそこからだ。文字、つまり言葉を絵として分解・再構成したのがここでジャニーが提示した考えだから。

そして私は絵は詩だと思っている。詩は思想の圧縮で、それは脳の断片で、つまりは人生だと思っているから、人の紡ぐ言葉が好きだ。だからジャニーのことは詩人として捉えている。絵描きのことはキャンバスに言葉を叩きつける詩人、複合芸術家と捉えている。私も絵を学んでいるから、是非そうなりたい。私の言葉を私の絵として表現したい。

今日これを書いているのは友達が私に書いてくれた小説を読み返して感動したからだ。「宮崎勤 精神鑑定書-「多重人格説」を検証する」というとても興味深い本があって、その中で宮崎勤の独特な言い回しの供述から彼の動機はおじいさんの「ため」ではなく、おじいさんの「こと」でやったという記載がある。これはかなり印象深く、これもまた私の物事の捉え方に大きな影響をもたらした。

「誰かのためというものは無く、自分のことだけがある」、三年前からそう考えるようになった。しかしその考えをベースにしても友達の書いてくれた小説は私の「ため」に書いてくれたと思えたのである。だから感動した。

いや、もしかしたら「友達の頭が組み立てた仮想人格の私=自分のため」に書いたのかもしれない。恐らくはそうだろう。でもそれは私を思って書いてくれたのは間違いない。私も先日友達がとても辛そうだった時、「私の頭の中の友達のため」、その人を救うための詩を書いた。それは私のためだ。私の中の友達、つまり私の心の一部が悲しまないように書いたのだから。結果、実際の友達もとても感謝してくれたから私はこれ以上なく嬉しかったけど。私は少し友達の助けになれたらしい。

それと同じように、友達の方がもっと素晴らしかったと思うけど便宜上そう表現するが同じように、友達が書いてくれた小説は私の心を愛で満たした。それは私と好きな人の小説で、私は文中で好きな人を祈るように愛した。友達は私をとてもよく理解してくれてる、と再認識した。前述したように友情に並ぶ愛は私の中では信仰しかない。私は祈るように愛すのだ。私の愛は祈りにとても近い。それを理解して私の「ため」に言葉を、人生を紡いでくれたことがひどく嬉しかった。私のよく使う好きな言葉だが、「たいせつ」だと思った。

その感情が私に表現をさせようとする。文章を書かせる。友情と信仰が最も尊ぶべきものだ。

そんな私が神様と呼んだ人が二人いる。一人は柳浩太郎くんでもう一人は戸塚祥太さんだ。くんとさんの使い分けは自分でもよくわからないから流してほしい。単にその時「やなぎくん」と呼んでいて、「とつかさん」と呼んでいるからに過ぎない。

当然、ここまで書いた内容を踏まえればわかるように私が二人に向けた感情はとても大きい。信仰なのだから。そして同時に好きなタレントという域を越えて現実として恋した、恋してる愛する人だ。私が愛する人はタレントの域を越えて人間として見ると同時に神様になる。神の子であるキリストには妻がいても平気だが、唯一神である神様には妻がいてはいけない、おかしい。だから彼女がいるという噂や真実に傷付くし、いないと信じたいのだ。

もちろん自分が彼女になりたいとも常に考えるけど、ありえない話だけど実際に私が彼女となったら自分を許せないだろう。

そんな妄想に、所詮妄想なのに葛藤する。

三年前の私はとつかさんがあまりにも好きで、でも現実には彼女がいるだろうと根拠無く思い、しかもその時は信仰が頂点に達していたから、この思考に基づく苦しみをどうにかするために、現実のとつかさんと空想を分けて考えた。空想のとつかさんの事は「祥太くん」と下の名前で呼んだ。どうしてもその時の私には私の信仰する理想像としてのとつかさんに血の通った肉体があるとは思えなかった。実際に動く姿を見ても理解できなかった。そもそも、その時はアイドルを見に行くと頭の中にファンタジーのフィルターがかかっていたのだけど、それを差し引いても理解できなかった。だから電気信号で動く血と肉の集合に魂が宿り実存たらしめるのは現実のとつかさんで、「祥太くん」は実体がなく、概念的なものであるとした。

私はいつも定義づけをしないと自分の思考がまとまらなくて、納得ができなくて、苦しむ。

苦痛から逃れるために考え、文章を書いて、しばしば哲学と科学を参考に定義づけをする。

やなぎくんが好きな時はバカだったと、今もバカだけど思うから、そんな深く考えることはできなくて、全てが概念的だった。降りてしまったことが勝手ながらひどく申し訳ない。私に好かれる事は迷惑だろうけど、「ファン」が一人減って動員や売り上げが減ることは損だろうから、そういった意味で助けになれないのが申し訳ないと思う。やなぎくんの事が好きな時、やっぱり私は信仰しながら彼を一人の人間として好きだった。大好きだった。どうして降りてしまったかというと、嫌いになったからとか幻滅する事があったからとかでは無い。他に熱量が向いてしまったから、それだけだ。

私の神様は唯一神だから神様が二人いるなんてことはありえない。

私の宗教観に反してしまう。私の教義が揺らいでしまう。だからフェードアウトした。

ただそれだけのことだから申し訳ない。

彼には直接神様だと言えた。握手した時に私があまりにも震えていたから、彼が「オレ、神?」と言って、私は「神様です・・・」と震えて俯きながら言った。彼はもちろん冗談で軽く言ったと思うけど、私にはこれ以上なく真実だった。直接伝えられたから後悔はない。

今は陰ながら応援するばかりだ。一銭にもならないからそれが何だって感じだけど。彼へのファンレターに書いたことはまだ憶えている。

「あなたは太陽で、私はその輝きから目を逸らすことができない向日葵です。」

本当はあまりにも強いきらめきで目を逸らしてしまいたい。でも否応なく見てしまう。そんな存在だと彼に宛てた。今はとつかさんにそう思っている。加藤和樹を観にやなぎくんがBACK BEATを観に来て本当にびっくりしたなあ。わがままにもその日入りたかったなって悔しくなっちゃったよ。本当にわがままだね。

本当に本当に申し訳ないけど、彼は私が本気で愛した相手だという事実は消えることはない。私の人生に残り続ける愛した人だ。とつかさんも何があったとしても私の人生において色褪せることのない愛した人だろう。いや、愛した命か。「Zokkon命」の歌詞は大好きだ。とても良い歌詞である。メロディーが「Don't Tell Me You Love Me」のパクリでも、歌詞が大好きだ。特に二番の歌詞が好きだ。愛する人にあの歌詞のようなことをしてもらいたい。それが一番の理想だ。そもそもこの歌を良いと思ったのは「愛した人」ではなく「愛した命」と表現していたからだ。命をLOVEと読ませる形のギミックに気付いたのはだいぶ後だったけど、フレーズとしては最初に気に入った。実際曲の本質の部分だったのだから、そう思わせたこの作詞は素晴らしいものだ。

本当は恋が永遠であって欲しい。永遠に愛したい。やなぎくんを好きだった時もそう思っていた。今よりも盲目でバカだったから、軽々しく「一生好き」だなんてよく口にしていた。その言葉は嘘になった。好きではあっても一番じゃなくなった。その罪悪感でいつも胸が締め付けられる。今はとつかさんへのリプに一生好きに続く言葉として「一緒に生涯終わらせたい」と書いた。迷惑極まりないけど、一生好きを完遂するには心中しかないのだ。それを相手に迷惑をかけずにするには自分の頭の中に彼の人格を再現する他ない。三年前の私は本当に頭の中にとつかさんの人格を再現して彼のタルパを生み出そうとした。そして彼と一緒に死のうと思っていた。人は死ぬ時は孤独だ。私は私を抱えて死んでいく。私は頭の中のとつかさんと心中したかった。その仮想人格は中途半端なところで想像力の限界をむかえて、結局完成はしていない。とはいえ、後の現実の彼の行動や知らなかった過去の発言をいくつか的中させていたから、少なくともアイドルとして私達に見せてくれている面は割と理解できていたとも思う。

ここまで「理解」という単語も何回も使った。私の思う愛にあたる関係は友達と信仰だと書いたが、愛の概念の方のうち一つは「理解」だ。私は理解されたいし理解したい。逆に言えば嫌いだと思った人のことだって理解すれば愛せると思っている。わかり合うこと、全人類がそうあれば世界は平和だろうと考えている。私は問題とされている事は全て置いておいて、ジャニーの思想が好きだ。「ひとりぼっちになったとき」は中谷良の曲だと書かれているが、こちらもそうかは私が詳しくないため不正確だが、暴露本にそう書いてあった気がする。「裸の少年」という少年兵への悲しみを歌った北公次のソロ曲が好きだ。作詞が中谷良名義になっているため、暴露本の記載はそれがジャニーの書いたもので自分じゃない、という話だった気もする。これは中谷良の本は現物が手元にないためわからない。私は暴露本は制作面の裏話を読むために読んでいる。作品の良し悪しは犯罪と切り離すべきだと考えている。その曲は台詞から始まり、二番の始まりにもう一度台詞がある。それが大好きだ。これもベースは聖書である。

「むかし アダムとイヴが知り合った頃 人種の違いを知らなかった ただ人間同士だということだけ どうして戦うのだろうお互いに こんな息苦しい世界で 僕たちはひしめき合って生きていかなければならない この荒んだ心に この汚れた地上に 僕たちはたったひとつ 愛がなければ 死んでいたかもしれない」

「そして 世の中の人がお互い愛し合う日を アダムとイヴになり すっ裸になって愛し合える日を 僕たちは願う」

この台詞が指すものは愛とは理解だという概念だ。私はこれに深く賛同する。ジャニーが素晴らしい詩人であると思うのはこのようなところからだ。そういえば、タッキーの「愛・革命」の冒頭の台詞も当初はなかったのに編曲に出したら追加されていたものだ。あの台詞も大好きだ。A.B.C-Zに興味を持ったのも昔のカウコンを見ていて「愛・革命」に「何!?このめちゃくちゃいい曲は!!」と思って滝沢革命を見たからだ。とつかさん自体はそれ以前に顔を知らない状況でブログに載せていた手書きの字をとても気に入っていたというのがあるけど。

ジャニーの提示する愛は理解であるという考えでもう一つ好きなのは「少年たち」の初演、といっても演劇の方の内容は知ることができないからそのサントラである、「フォリーブス・ヤング・サプライズ 少年たち 〜小さな抵抗〜」だ。これにある台詞もまた愛とは理解であるということを提示している。大好きな台詞だ。

「十八年前の一月に生まれ、十年間母さんのお世話になった。父さんにお世話になったのは、たった三年間だけ、それも僕の記憶にない。あの娘と知り合ったのが二年間、これから何十年も知りあっていきたかったのに、それもとうとう出来なくなった。もう一度生まれてみたい。生きるために生まれてみたい。」

この、「これから何十年と知りあっていきたかったのに」、私は愛する人と共に生きていくことを「これからも知り合う」と表現しているものを他に知らない。とても印象的な言葉だ。実際台詞を書いたのは誰かはわからないが、「構成・ジャニー喜多川」とあるのと後の舞台の台詞の文体などから恐らくジャニーの言葉だろう。この台詞で私の愛とは理解であるという思考はより強固になった。

さらにこの役は友のために命を捨て、これはその後の台詞だ。私の思う愛そのものである。私はこのレコードを聴くためにレコードプレーヤーを買った。これに限ってCDも出ているのでおすすめしたい。

私の思う愛は友情と信仰でその概念は理解である。ジャニーズのコンテンツがその思想の裏付けとなった。

友達、大好きだよ。やなぎくん、大好きだった。とつかさん、大好きです。

これからも知り合っていきたい。

いつか完全に理解したい。

私の方舟には絶対に乗せると決めている。

私の命と共にある命たちだ。

何よりも大切なものたち。

大好きだ。

大好きです。

ありがとう。これからも、ありがとう。