僕は・・・
君に・・・
おとぎ話を・・・
してあげよう・・・。
終ノ空の感想及び考察ブログになります。私はまあ、かなり前からこの作品に出てくる間宮卓司くんが大好きで大好きで、特にキャラ作画もこの初代(というのは適切でないが)が1番好きで、間宮きゅん︎🤍と専ニクを付けて愛しております。
まあそんなことはさておき、感想考察に行きましょう。今回は水上行人と間宮卓司のみを基本的にフィーチャーした文となります。まず、行人の考察から始め、そこから連鎖的に綴っていこうと思う。
水上行人。彼は無気力寄りのクールキャラだけど、熱く、博識という、現代でいうところの陰キャ/陽キャに分類することが非常に難しいと感じた。クールだけど熱いというキャラ自体は色々な作品に沢山いますけど、彼の特殊性は正義ベースで動いているとはいえ、正義に徹しきることの出来ない、未熟さ(中途半端とも言えるが、未熟という方が適切と感じる。)のように思えます。
分かりやすい例で言えば、高島ざくろとろくに話したことがないのに悲しむ生徒を見下しつつも、自分もさして変わらない。わざと無視こそしなかったが、積極的に話しかけることもなかった。
(何度か話したことはあるが、と言ってはいるが、心を開いてくれなかったと他責、そして目立たない女と評している。あそこまで苛烈なイジメの実情をまるで把握していなかったのは後述する、「他人事、無関心、淡白」の話に続く。さらに、気づかなかったことを俺の性格だからと正当化している。この時点で人によってはこの主人公はまあまあひどいヤツなんじゃないか?と思ったかもしれない。)
まあそれを「茶番よばわりする俺」と言っているので、冷笑系に近いのですかね。それから、間宮卓司を殴ることができなかった、止めることができなかった。そして、それ以前の間宮が「クラスのやつら」から嫌われていることを知っていたにも関わらず、それを助けようとはしなかった。彼に完全な正義感はないと見て間違いないでしょう。
それこそ、彼が読んでいた純粋理性批判におけるアンチノミーそのものです。普通よりは少し強めの正義感と、それを実行しようとする意志自体はあるが、それを実行することはほぼできない。
(個人的に)とてもクールな雰囲気を纏っているから言葉もなんだかもっともらしく聞こえてしまうが、実際のところ、殆どの事を解決することなど出来なかった、未熟な存在、それこそまだ「少年」なのであると思います。
それも、知識だけが膨れ上がって、他者を無意識に下に見てしまっているように見える。中二病か?と言われると違うと言いたくなりますが、中二病であると私は思いますね。
「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」
この言葉を、彼は「逃避」に使っていると感じました。ゆえに、ラストでの間宮との対峙でその決定的なモノの捉え方の違いが浮き彫りになるのかと思います。
彼は本編で彩名に対し心の中で「不思議系は許せないが芝居に思えない」といった感情を吐露しています。間宮に対し、ある種真剣に向き合ったのは、彼の言動が芝居じみているだけで「芝居ではなかった」からかと、考えました。
さて、少し思ったのが、水上行人は本当に若槻琴美が好きなのか?ということ。
「芝居」という言葉が先程出てきた。私には行人の人生こそ「芝居」をしているように見える。「主人公という役割を与えられた以上必然の仕方ないこと」なのかもしれないが、どうも、水上行人らしく周囲に見えるキャラクターを演じているように見えるのだ。それが不完全であるがゆえに、先述の未熟さがある。すると、琴美のことは?無意識に彼は「助けるべきヒロイン役」に彼女をキャスティングしているだけで、本心から好きなようには思えないのだ。(これは個人的に水上行人と間宮卓司のBLを非常に求めているということとは全く関係ない。)勿論、幼なじみゆえ気にかけてはいるが、ツンデレというにはぞんざいすぎる扱い、助けるシーンは愛ゆえに強い意志を持って助けたというよりは、助けるべき場面だから助けた、かのように思えたのだ。勿論琴美にだけじゃない。彼は他人に対してかなり興味が薄く、割かしいつでも他人事、とても淡白だ。それをクール系というキャラと、それを上回る変わったキャラたちが上書きして目立たなくしている。慰めの言葉も下手だ。博識な思春期の少年としてはとても解像度が高い。だが、あまりに人の考えを理解できないのではないのだろうか。正直に言ってしまうと、きわめて軽度の発達障害かのような印象だ。そして琴美は簡単な言葉で言えば可哀想な女だ。好きな行人は「自分の知らない顔」をする、アプローチに仮に気づいていたとしても気づいていないような素振りをする、そして恐怖の対象である予言についても斬り捨てられてしまう。そして終いには強姦。あまりにも散々だ。
間宮卓司。彼目線のパートでこそ、多少発言の意味の補足があるが、行人目線では全くわからない。しかし、間宮目線で語られた思考も本来の意味とは言えない。それはライターであるSCA-自氏のTwitter上での発言に依存する。
曰く、三角形がどうのといった発言は実際におかしくなった(恐らく統合失調症)知人に現実で言われた事を元にしていて、書いた本人も意味がわかっていないとことである。すると、間宮視点での四角形の理論の図式化はあくまで「実在した間宮卓司のような人物」の考えそうなことを想像したものであり、真実とは言えない。当然、物語の中でも空想と扱われ、作品内の間宮の中でのみ「真実」である。
個人的な話をすると、この旧プールでの「今は三角なんだ」からの一連のやり取りが大好きである。
さて、間宮に関しての続きだ。彼は「体の人」「理」という言葉を用いるが、その定義の明確な説明をしてくれない。それは統合失調症患者(として、見ることとする。)の解像度としては高いが、読者としては意味がわからず困惑するばかりである。また、間宮は行人を自分と少し似ているのではと感じていることが間宮目線で語られている。その要素がこの校門でのやり取りでも見られる。それは、他者を見下しているという点だ。間宮は「弁証法なんてすこし難しい言葉をつかったが…、彼、理解できたかな?」という台詞で明らかだ。
行人はこの時点での間宮を「といっても、俺がヤツを病院に入れるわけにもいかないだろうし…医者じゃあるまいしどうもできないし。」と、評し、先生に言う選択肢はまずないとのことである。
確かに2人はよく似ている。
しかし、私がそう感じたのは悪い点ばかりだ。ここでの行人は他力本願で、正しい提案「だけして」正義感を満たし、決定的な行動はしない。そのうち親や先生が気づくはずだと楽観的で、もし家族が不仲なら?先生もイジメに加担していたら?そんな想像すらしない。どこまでも他人事なのである。博識なバカだというところも似ている。行人は数学と物理が常にはぼ1位、古文と歴史は赤点。間宮は勉強はできず、勉強外の歴史(間宮視点冒頭の処刑法の話や、ヒトラーの演説技法など)に詳しい。よく似ているが、表裏一体、正しく2人は「対」の存在だ。
思うに、行人にできず、間宮にできたのは、決定的な行動ができたということだ。これもまた後述する。
表裏一体。これは本編にも出てくる。
「終わらない事と終わる事は表裏一体」「それは対になってこそ存在を許されている。」
「それは違ったものではなく。」
「裏表で一つのもの、」
「つまり、」
「同じものなのだ・・・。」
これらの文は私の考える行人と間宮そのものだ。実際、このゲームはエロゲでありながら2人の関係に終始する。根幹である以上、私の好みとは関係なく触れざるを得ない。
「なにかの拍子にひっくり返ることだってありうる。」
この文に行人は引っかかる。この時は生と死をそれと考えているが、私は「行人が」「ひっくり返った存在」は「間宮卓司である」と考える。陳腐かつ、誰もが思いそうなことではあるが、実際そうだろうと思うので記す。
間宮卓司をメインに話そう。彼は感情面も行人と対である。学校内でこそはイジメられているゆえにオドオドとしているが、秘密基地に行けばリルルちゃんと、とても饒舌に話す。そしてこの、「絶対的に愛する者がいる」というところも行人との違いだ。間宮はアニメの最終回を陰謀と思う程に(これはさすがにとんでもないなと驚いた。)そのアニメのキャラクターである、リルルちゃんを愛し、現実を見つめる己の目を、脳を、騙して生きている。
琴美にさえかなりぞんざいな扱いだった行人とは実在人物と架空人物の差はあれど、愛の形は大きく違い、私は間宮の「愛」の方が純粋に美しいものと思う。
神格的に愛しているからこそ、傾倒は止まらない。妄想(?)は悪化していく。
しかし、同時に終ノ空での間宮卓司は実際に奇跡を使えているため、本当に救世主であり、精神疾患とくくるのはあまりに雑だとも思っている。
ただ分かりやすい表現として使用している。申し訳ない。
(「素晴らしき日々」での間宮卓司は奇跡ではなく紛い物の奇跡なので、彼は童貞を失ったことで神聖を失ったのだと私は勝手に捉えた。)
さて、長くなりすぎるのも疲れるのでラストシーンに話を飛ばそう。
例の告白じみた台詞である。
「僕はね」
「多分」
「君のことが好きだったんだ」
「…なんだそれ?」
「すべては誤謬の中で」
「君だけは」
「僕の中の真実だったのかもしれない」
真実と言うと先に触れた。思うに、間宮卓司は己の中の真実しか見ていないし信じていないのだ。彼は世界は陰謀論にまみれているという彼の中の真実を信じるからこそ、「すべては誤謬」と言う。
「…」
「お前…ホモか?」
「あははははは、違うよ」
「肉体の君など」
「好きでもなんでもないよ」
「…よかった」
肉体の君など好きでもなんでもない、そう言ったが、間宮はかつて「君は体の人なんだ」「時には僕の理すら及ばない認識に至ることもある」と、「体」を評価していた。それがこうも変わったのは何故だ?単に救世主として覚醒したから本当に悟ることができたのか、それともBL的照れ隠しなのか。地味にここが難しい。
「こんな言葉を知ってるかね」
「つれだつ友なる二羽の鷲は、同一の木を抱けり」
「…」
「その一羽は甘き菩提樹の実を食らい、他の一方は食らわずして注視する」
ここは複数の意味に取れる。注視という点では、現実を注視し続けたのは行人、「語りえぬもの」を注視した。しかし、自分に優しい「真実」という甘味に食らいついたのは間宮であり、それを注視したのは行人。さて、この菩提樹の実を食らうというのは「語りえぬものを語ってしまう」という意味と同義である。そしてそれは堕落だと。自分に都合のいい真実を得て安心しようとする、それを堕落と呼んだのではないか?と考えた。
そして、もう一羽である行人は神、語りえぬものに語りかけることはなく、神意に触れなかった。
「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」
水上行人は語りえぬことを語らなかった。
間宮卓司は語った。
その顛末は、
その先があったかどうかは、
1章のラストの通り、我々は知りえないのだ。